院長ブログ

[’10/2/7] 長崎市内観光 その②

セミナー明けの今日は、日曜日
ということで、今日は一人で市内観光してきました。
まずは、朝ごはん
ホテルそばの、新地中華街

角煮まん
昨日、鶴田先生から教えて頂いた長崎名物
やっぱり、美味しかったです。

そして、グラバー園
頂いた資料から。

 

遠くスコットランドからトライしたトーマス・ブレーク・グラバーが、
南山手の丘に住まいを建設したのは1863年のこと。
当時長崎の街は、日本の新しい夜明けを夢見る人々の熱気であふれていました。

遠く大洋の波涛を越え、夢を抱いてやってくる異国の商人たち、
倒幕の野望に燃える幕末の志士たちや、西洋の学問を志す日本の若者たち。
あれから100年以上経った今も、ここにはグラバーたちが暮らした当時の記憶が、
共に長崎を愛し長崎に暮らした貿易商たちの邸宅が、形を変えることなく残されています。
ノスタルジックな時間の散策を、どうぞお楽しみください。



長崎伝統芸能館には、「長崎くんち」に奉納される、龍踊りの白龍、青龍、各町の奉納踊りを
先導する「傘鉾」も。
豪華絢爛


オランダ坂へ。

そして、長崎歴史文化博物館へ。
ここでも、大河ドラマ「龍馬伝」の影響が大きく、
坂本龍馬岩崎弥太郎の銅像が。

そして、最後は出島
ここは、絶対行ってみたかった所。

 

出島の誕生

1636年(寛永13年)、江戸幕府はポルトガル人による
キリスト教の布教を禁止するために、長崎の有力な町人に命じて
約1万5千平方メートルの人工の島を築き、そこにポルトガル人を収容しました。
この人工の島が「出島」です。

1639年(寛永16年)、鎖国令によってポルトガル船の来航が禁止され、
出島は一時、無人の島となりましたが、1641年(寛永18年)、
平戸のオランダ商館が出島に移転。

それ以来、1859年(安政6年)までの218年もの間、
出島は西洋に開かれたわが国唯一の窓口として、
日本の近代化に大きな役割を果たしました。

?

明治以降、出島周辺の埋め立てが進み、
1904年(明治37年)に完成した第2期港湾改良工事によって、
海の浮かぶ扇形の出島はその原型が失われ、
以来、市街地のなかに埋もれてしまいました。

出島は、日本の近代化に大きな役割を果たした重要な
歴史的文化遺産であり、1922年(大正11年)に
国の史跡に指定されました。

長崎市では、1951年(昭和26年)から史跡内民有地の
公有化に取り組み、2001年(平成13年)に完全公有化ができました。

その間、1982年(昭和57年)に長崎市出島史跡整備審議会より
史跡の長期的かつ総合的な復元整備構想の答申がなされ、
1996年(平成8年)には具体的な短中期計画と将来的な長期計画からなる
復元整備計画が策定され本格的な復元設備事業がスタートしました。


ということで、本当1日観光の日になりました。
忙しい土曜日、診療をお休みさせて頂いたにも関わらず、普段と変わらず
働いていたメンバーのため、両手でも持ちきれない程のお土産、買って帰りました。
いつもいつも、感謝です。

 <この2日間私をサポートして頂いた全ての人に感謝 寄田幸司>

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