院長プロフィール - ヨリタ歯科クリニック

来院者やチームメンバーに
夢と希望を与え続けるドリームマスターになります!

私は、私の周囲の人たちの協力や、支えがあって初めて
患者様を満足させることが出来ることを、開業して、痛いほど実感しました。
そして、関わる全ての人成長することが出来る環境を作りあげることが大切であることを学びました。

そのため、人を知りその人にあった目標を定め、
励まし続けることが、院長である私の責務であると、考えています。
私は、あなたの大切な歯を、出来るだけ削りたくありません。

健康な人が、健康を維持するために来院する、ワクワク楽しい医院作りを、すすめています。
そのためには、“強固なチームワーク作り”が、欠かせません。
これからも、チームメンバーの人材育成に力を注いでいきたいと思います。

寄田 幸司– Yorita Koji –

星座 おひつじ座
血液型 A型
趣味 散歩、星をながめる
出身校 岡山大学 歯学部
活動内容
  • 日本ヘルスケア研究会 会員
  • No.1デンティストクラブジャパン 会員 特別講師
  • CHP研究会 アドバンスコース 講師
  • (有)メディカル・コミュニケーション 取締役
  • 地域一番医院実践経営塾 名誉顧問 特別講師
  • (有)ワクワク楽しい歯科医院 実践会 会長
  • 全国各地で、歯科医院経営者、スタッフ向けに
    「ワクワク楽しい歯科医院実践」セミナーを開催
  • 参加者に夢と希望を与える、ドリームマスターとしても活躍
  • ワクワクプランナー。
    また、ヘルスプロモーションを基礎に心理学、哲学、経済学の知識豊富
  • 独自の考えを基に、患者様とともに歩む「ワクワク楽しい」歯科医院を実践
  • 真の患者様利益の追求と、満足度アップのため日々奮闘中

成功へのセルフトーク

  • 夢と共に、生きる。
  • 人の上に立つ戦士になるのではなく、人に役に立つ天使になる。
  • 半径、3mの人を幸せにする。
  • 名は、体を表す。
  • 明日の来ない、今日はない。
  • 「はたらくをしあわせに」
  • 何事も、本気でこだわる
  • 天より高く空より大きく海より深し。そしていつも、謙虚な心
  • ★去年1年を振り返って
  • ★年頭における私たちの思い・あなたへのメッセージ

院長プロフィール

小中学生の私あの頃の、原体験

私は昭和37年4月、大阪府和泉市で生まれました。
小学校低学年までは、父はショッピングマーケットの一角で、
小さな服品店(服の販売)をしていました。
そして私たちは、店の2階に住んでいました。

ですから、ショッピングマーケットの中が、私の遊び場。
私の幼馴染は、皆商売人
(例えば駄菓子屋、化粧品屋、豆腐屋、タコ焼屋)の息子や娘でした。

だから友達同士の朝のあいさつは、「おはよう」「よぉ!」ではなく
大阪弁で「まいど、まいど」「もうかってまっか~」
別れのあいさつも「さよなら」「じゃあね~」ではなく、
「また来てや~」「ごひいきに~」でした。

しかしいつの間にか、私の父はただ単に服の販売をするのに飽きたのか、
ニットの製造卸業を始めていました。

さらに、自分でも服のデザインをするようになりました。そして、新たに工場を建て
何十台ものミシンと多くの女性が働くような環境になりました。
また自宅も工場と同じ敷地内にありましたので、小さい頃から商売のイロハ
肌で感じ、学んでいたように思います。

あの頃の、父の職場は、もちろん圧倒的に女性が多く勤めていました。
昭和40年代の日本は、まさに高度成長時代
明日はもっと生活が良くなる。そのために今を一生懸命に生きようとする
夢と希望で胸を膨らませた、明るく活発な女性に、私は囲まれていました。

そんな職場の中で、私も夏休みなどは仕事を手伝い、小遣いをもらっていました
時には、父の車の横に乗り、商品の配達をしました。
何か人の役に立つことをして、その対価として報酬も頂く
もしくは正当な評価を得る。

あの頃の原体験が、今の私の商売に対する基本姿勢を形作っています。

小中学生の私暗い夜道を照らす、星明り

あの頃の私は、将来に不安を感じることもありませんでした。

家業が自営業だったこともあり、家にはいつも父や母がいて、
心から付き合える友もいる。
自分では何も深く考えなくても良い、全てはうまくいく、そんな良き時代でした。

高校時代から始まる、波乱万丈の人生の夜明け前です。

ということで、突然ですが、夜空の星を眺めるのが大好きです。
そのため、塾の帰り道はいつも、ポカンと口を開け上を向いて帰っていました。

何万、何十万光年も離れた星の光が、今家路を急ぐ私を照らしている。
そう考えるだけで、神秘的な気分になりました。

もしかして、光を放つ星は今はすでに消滅しているかも知れない。
そう考えると、いつまでもいつまでも眺めてしまうのです。

暗い夜道を照らす星の明りは、人生に例えることが出来ます。

まだ、夜明け前、自分の人生を自分の力で歩むだけの、自信や行動力のない時期は、
両親や、学校の先生などの支援が必要です。

しかし、彼らの支援は、月の光のように永遠ではありません。

私がこの時期、学んだこと。

幸せは、永遠に続かないこと。変化し続けること。

そして、今、強く感じること。
当たり前だと思っていたことが、幸せであるとわかる時が必ず来ること。

それらは全て、歯科医院経営に生かされています。

私は周囲の人々のサポートのお陰で、
歯科医院を安定して経営することが出来ています。
決して私一人の力では、ここまで辿り着くことは出来ませんでした。

そして今後は、周囲の人々の星明りになり、
進む方向を明確に照らしていきます。

高校生の私人生が、大きく変化した日

今の私とは少し違う、もう一人の真の私に、」迫ってみたいと思います。

よく患者様から「なぜ先生は歯科医師の道に進んだのですか」
と、聞かれる事があります。

その時は必ず「小さい頃から手先が器用だったからです」とか
「国家資格のある職業に就き、自分をためしたかった」

など、エリート官僚のような答えをしていました。

しかし、真実は少し違っています。

私は、テニスに明け暮れた高校3年間を過ごしていました。
そして将来の夢は“家族の安らぎと幸せに満ちた空間をプロデュースする
スーパー設計士”です。
あの時を迎えるまでは。

運命の日を迎える前の二日間、私は大学入試一次試験に挑みました。

前年より、大学受験の制度が大きく変わっていました。
共通一次試験が導入されたのです。

私の共通一次試験の成績は、予想に反してかなり悪いものでした。
自己採点により、これが判明したのが、1月14日のお昼でした。
私の第一志望の某国立大学工学部建築学科は、まず不可能という結果でした。
私はそれからの記憶は定かではありません。

気付いた時には、私の手の中にはなぜか岡山大学歯学部の願書がありました。
繰り返します。その間の記憶が全く飛んでしまったのです。

実は私の運命を変えたこの出来事も、私の意志ではありませんでした。
と、言いますか、あの時の私には、自分で判断し、行動する勇気と気力
全くありませんでした。

それでは、ここでその願書を私に渡したという、同級生の手紙をご紹介します。
そう、手紙には1979年1月14日のあの日の真相が書かれています。

高校生の私そして、歯科医師の道に進む

「ヨリタマニアの皆様、はじめまして、山田豊和といいます。
私はヨリタ君の中学校、高校時代の同級生で、高校3年生の時は
3年9組で同じクラスでした。

私はその後、大阪大学歯学部を優秀な成績で卒業し、
現在堺市にて歯科医院を開業しています。
自分で言うのも何ですが、結構ハヤッテいます。

実はもう25年も前の話なので、詳しくは憶えていません。
まあ、私には大したことではありませんので。
あ~確かにあの時、ヨリタ君に岡山大学歯学部の願書を渡したのは私です。
そうです、あの願書はもう私には必要ないと思ったので。

何故って?イヤ~共通一次試験の結果が良かったので、
ワンランク上の大学を受けることにしました。

放課後、教室を出ようとした私の前に、偶然ポッカリと大きな口を開け、
夕日を見ながら、窓越しに一人たたずむ、親友のヨリタ君がいました。

声をかける雰囲気ではなかったので、たまたま持っていた願書をその口、いや、
その手に渡しました。もちろん、励ましの言葉も添えました。
だって親友ですから。え~なんだっけなぁ~
『明日の来ない今日はない、今を精一杯生きることが大切だぞ』
こんな感じでしょうか。

今思えば素直なヨリタ君は、私のあの言葉をワラをもすがる思い
信じていたのでしょう。
根がマジメですから。
え~最後に歯でお悩みの方は親切丁寧、そして親友思いの堺の山田歯科へ
是非お越し下さい」

それがどうもあの空白の二時間の真相のようです。
ですから今でもあのエリート歯科医師の山田君には頭が上がりません。
我に返った私の手には、しっかり夢の片道切符(願書)が握りしめられていました。

私はこれは何かの縁、神様のおぼし召しかと思い、乗りかけた舟、
素直に歯学部を受験しました。

これは誠に私の優柔不断さ、イイかげんさ、行き当たりバッタリ、
良く言えば臨機応変、変化自在とでも言いましょうか。
あまり深く考えない得な性格(?)が成せるワザかもしれません。

大学生の私アルバイトを通じての、学び

それが、今診療室であなたに自信たっぷりにお話をさせて頂いている
私の25年前の1月14日の出来事です。

そして目出たく、岡山大学に入学したのは、昭和56年4月
19歳の春、青春最只中の私は、広いキャンパスを持つ岡山大学を、
新しい生活に夢ふくらませ、意気揚々と歩いていました。

キャンパスを見渡すとそこには、その当時流行の
ニュートラファッションに身を包んだ、女子大生が大勢いました。

そして、大きめの手さげバッグの中にはテニスラケットが。
テニスサークルの勧誘も、多くありました。

常に時代の最先端を行こうとする私は、すでに高校からテニスをやっていました。
もちろん真剣に、勝負にこだわって
ということで、かなり惑いましたが、ミーハーなテニスサークルではなく、
歯学部硬式テニス部に入部
しました。

といっても、岡山大学歯学部は、私が二期生
経験者が数名しかいなく、私たちが作ったようなもの。
最初は、同好会からのスタートでした。

その後、6年間岡山大学で、相変わらずテニスをしながら、
大学時代をエンジョイしました。

学生時代、私の考えていた理想の歯科医師像とは。
ただ単にむし歯や歯槽膿漏を治療する、そんなお口の中だけを見る歯科医師には
なりたくありませんでした。

お口を通して、その人を見る、その人の生活習慣を見る、
その人の家族を見る、その人の住む地域を見る、

こんな広い視野に立つ歯科医師になろうと、決意していました。

そんな私が得た、大学時代の学び

それは授業でも、部活でも、恋愛でも、読書でも、ありません。
答えは、アルバイト

といっても、家庭教師や、塾の講師をしていたのではありません。
私は、人に物を教えるのが苦手です。
ですから家庭教師は時給はよいのですが、積極的にやろうとは思いませんでした。

また学生の立場であるのに、先方宅から、「先生、先生」と呼ばれることに、
スゴく違和感を憶えていました。

ということで、私の最初のアルバイトは、パブのウェイターです。
いわゆるホール係です。

お客様をテーブルに案内し、オーダーを聞き、
そして、料理をお客様にお出しする。
ただそれだけなのですが、やはり経験が必要です。

例えば、アベックで来店した時、その2人の親密度によって、
対面のテーブルにご案内するのか、
隣り合わせに話すことが出来る、コーナーテーブルがよいのか、
瞬時に判断します。

またこのパブには、屋外テラスが用意されてました。
もちろん天候の良い日などは、テラスをお勧めします。

また、急な天候の移り変わりにはすぐに移動してもらう必要もあります。
お食事中の会話の進み具合や雰囲気などを考慮して、接客するシーンを、
最小限にとどめる必要があります。

どんなに忙しくても、最適な、判断、行動力を身につけることが、
出来るようになりました。

これは開業しても生かされました。
どんなに忙しくても、適切な指示を出すことで、
来院者の皆様に、満足して頂ける診療室を作ることが出来ました。

大学生の私一心不乱の、就職活動

6年生の夏休み、いくつかの成功している、大阪の開業医の先生を訪問しました。
そしてインタビューさせて頂きました。
学生の私でもお時間をとっていただき、多くの学びを得ることが出来ました。

そしてその経験を通じ、私が就職を希望したのは、
大阪の(医)小室会、小室歯科でした。
経営者小室甲(こむろ はじむ)先生のお人柄です。

大型歯科医院を、複数経営しているにもかかわらず、気さくで飾らない、
そして最高の笑顔が似合うジェントルマン
だったからです。

しかも、心が広く、大きく包み込まれる安心感がありました。
また、学術的にも常に研究熱心で、新しいものにチャレンジする、
好奇心旺盛なリーダーでもありました。

30分~1時間かけて一人をじっくり診る、自費中心の診療スタイルもさることながら、
この先生の元で人生哲学を学びたい、もっと端的に言えば、
その人そのものを学びたいと思いました。

採用は、筆記試験と面接がありました。
一般開業医でここまできっちりした採用試験をするのは、珍しいと思います。
試験は、実はあまり、出来良くはなかったと思います。
今思えば、かなり的外れの解答を書いてました。

その反面、面接はかなり自信がありました。
小室先生をはじめ、副院長、医長、婦長、事務長などの面接官の前で、
私の思いを全て伝えることが出来ました。

「何故ここまで自信満々に話す事が出来るのか」
ビックリされていたかもしれない程。
自分でも熱く語りました

それはやはり、5年後の将来像を明確に持ち、
そのファーストステップとしてここを選んだこと、
自分の進む道、選択肢は絶対に間違っていないという
強い信頼があったためであると思います。

そして私は、必ずここに就職すると決めていました。
また、ここにしか就職しないと決めていました。
まるで、あの谷亮子さんが、アテネオリンピック柔道女子48キロ級で
「最低でも金、最高でも金」と決めていたように。

決断とは、あることを決め、そして他のことを断つこと。
ここにしか行かないと決めることで、
集中力と自信、そして本番では実力以上のものが発揮されるのです。

私の目指す理想の歯科医師への、長く険しい道のりの、
輝かしい第一歩が、このような形で幕が開きました。

勤務医の私初めて歯科医師として認めてくれた人

昭和62年5月、歯科医師国家試験の発表があり、めでたく合格。
晴れて歯科医師になることができました。しかし、それはただ
「私にお会いした全ての患者様を幸せにするぞ」との情熱があるだけ。

歯科医師としてはかけ出し。大学での臨床実習では、看護士さんの中で
人気投票ナンバー1(?)の私でさえ、
実際の経験不足は、いかんともしがたいものがありました。

気持ちだけが空回りし、いつも冷汗の連続でした。
そして、私が勤務した大型診療所は、競争社会、強いもの、
できるドクターが生き残る、焼肉定食、イヤ、弱肉強食の世界

そんな新米医師の私を励まし、勇気つけてくれた人、
私はこの人のおかげで、自分に自信の持てる医師になった
といっても過言ではありません。

この大型歯科医院では、患者様1人につき1人のドクターが担当します。
複数のドクターが、患者様を診療するという事はありません。
それは担当医になることで、その人をより深く知ることができるためです。

しかし新米ドクターは医院での信頼感がないため、小さな虫歯や、
かぶせのやり替えなど、本当に簡単な治療を担当する事がほとんどです。
歯周病などのお口全体の治療が必要な患者様を、診察させて頂く機会は
あまりありません。
紹介(指名)以外は。

その人は、わざわざ私と指名して下さいました。高い志と夢しかない私は
まずハブラシ指導とお口のクリーニングからはじめました。
家では歯ブラシと歯間ブラシの3本を、使い分けてくれるほど熱心でした。
そのため、みるみるうちに歯ぐきの状態は良くなりました

同時に私はその人の期待にこたえるべく、多くの本を読み、
講習会に参加し、時々は上の先生の指示をあおぎ、ほぼ1年がかりで
お口全体の治療をさせて頂きました

私は多くの事を卒後1年で、その人から学ばさせて頂きました。
この間、歯科医師としてのやりがいを感じ、充実した日々を過ごす事が出来ました。
そして彼女も本当に喜んでくれ、心から感謝していただきました。
その言葉一つ一つが、私の自信になりました

私を歯科医師として認めてくれた人は、私の母です。

勤務医の私メンター、小室甲先生との出会い

小室院長が理事をしている、大阪歯科衛生研究財団という組織があります。
その活動の中で、2ヶ月に一度、講師を呼んでの研修会が開催されていました。
私の勤務医時代、常に学べる環境が、そこにありました。

私は献身的な母のお陰で、卒業早期に様々な技術を身につけ、実践する事が出来ました。
また毎週2回、院長と副院長の勉強会が開かれました。

そして同期の7人も、才能豊かな個性溢れた人ばかりでした。
7人でお互い仕事を通じ、高めあう事が出来ました。
いつも刺激的な日々を送っていました。

また、1日に私が診療させていただく患者様は10人程度
そのため一人一人丁寧な治療ができ、ゆっくりとお話をさせて頂く事も可能でした。

最短の予約が30分。自分が望めば1時間でも2時間でも、
一人に時間をかけることが出来るようになっていました。
私にとっては、最高の環境がここにありました。

この4年間で得たものは、何事にも変えがたいものでした。

時々私の師の小室甲(はじむ)先生と、お会いする機会があります。
今でも常に新しい技術や考え方を導入していくたゆまぬ向上心には、頭が下がります。

わたしが日頃心がけている「目標は高く、姿勢は低く」を、
飾らずさらりと実行している姿は、本当に尊敬しています。
少しでも近づきたいと、思っていました。

そのため、私が開業地として選んだ場所は、小室歯科と同じく駅前のテナントビル。
駅の規模が違いますが、良く似た立地条件です。
今ではユニット18台、勤務医の数も変わらなくなりました。

これらは全て、小室歯科のような医院を作りたい、
小室歯科の理事長のように、強いリーダーシップを発揮したいと、
本気で思ったからです。

人生における成功において最も大切なのは、
やはりドクターとして尊敬する人物に、いかに早く出会うかだと思います。

少しでも早く出会うことで、その人の考え方や生き方を学ぶ、
もしくはそのまま実践してみることが出来るのです。

その人が今このようになるまで、どのような道を歩んできたのか、
その時期に何を学んだのか、そして今後、5年後、10年後何をしたいのか、
それを教えて頂くことで、自分がやりたいこと、
やらねばならないことが明白となります。

私が4年間勤務医を通として過ごし、最も影響を受けたのが、
小室歯科グループを率いる小室 甲(はじむ)先生との出会いです。

ということで、小室甲先生のスゴイところベスト10

  1. いつも笑顔で前向き、そして行動が早い。
  2. 患者様や私たちスタッフにも、対応が丁寧で紳士的
  3. 決して他人の悪口を言わない、いつも良い所を見ようとする。
  4. いつも勉強熱心、新しいもの好き、チャレンジ精神旺盛
  5. 人を信頼し、任せてくれる、すなわち、権限委譲が出来る。
  6. 義理人情を大切にする。
  7. 常に先を見ている、やりたいことが明確。
  8. いつまでも若い、そして何事もカッコから入る
  9. 家族を大切にしている、スタッフを大切にしている。
  10. そして、どんなに借金があっても、車がオーバーヒートで
    路上で止まっても動じない。
    すなわち、ピンチをチャンスに変えることができる。

以上10項目について、少しでも先生に近づきたい思いと、
今私が最も心掛けていることです。

小室歯科グループに共通する小室スタイルの診療所とは。

  • ユニットが8台以上ある、大型物件であること(テナント)。
  • 土地勘のない人にでも、すぐに説明出来る程、よく知られている物件であること。
  • 人が多数集まる地区にあること。
  • 駅が近く徒歩圏にあること。
  • 人の移動が楽に出来るよう、各診療所が配置されていること。

これは、歯科医院過剰競争時代に入り、多くの医院が規模を縮小化していることを
考えれば、かなりリスキーであると言わざるをえません。
しかし、自分のやりたいことを貫く、スタイルを守ることが大切であると
先生の生き様を通じ、学び続けています。

開業医の私ヨリタ歯科クリニック、オープン

卒後3年後に、私は結婚しました。
妻との出会いは、友人の結婚披露宴。私は新郎側、妻は新婦側で
受付をしたのがきっかけです。

初めて会った時から、歯科医師そして学年が同じ、
また、共通の友人がいたりで、話が合いました。
そして、出会いから1年後、結婚式を挙げることになりました。

その時、内科の開業医である義父の医院が古くなり、
新たに立て替えることになり、そこで一緒に歯科医院も開設しないか
という話が出ました。

東大阪市は私自身、特に土地勘がある訳ではありません。
しかし、これも何かの縁、運命かもと思い、
この地で開業することを決意しました。

平成3年6月8日。
ヨリタ歯科クリニックは、東大阪市花園でオープン
しました。

最初は、ドクター私一人と、三人の新卒歯科衛生士でのスタートです。

4年間の勤務医時代、
多くの学びを得、また、実績も出していましたので、
かなり自信過剰になっていました。

私の技術コミュニケーション能力があれば、必ず患者様が集まる
地域で一番の医院
が、短期間で出来る、
そう信じて疑いませんでした。

有難いことに、確かに患者様が集まる歯科医院が出来ました。

しかし、忙しくなればなる程、それにつれ問題も大きくなります。
私は、歯科医師としては合格でした。
しかし、経営者としては全くの素人
ほとんど学んでいなかったのです。

そして開業4ヶ月、もう2度と学びたくない経験
することになります。

開業から4ヶ月になろうとしていました。
その間、診療は順調で、患者様も多く、1日約40人来院していました。

自分はやはり出来る。自信は過信ではなかったと。
さらに、鼻持ちならないイヤな人間になっていました。
あの出来事が、なければ。

順調すぎるぐらい順調の中で
唯一の問題点といえば、2ヶ月前ぐらいから、
3人のメンバー間の様子がおかしいかなと、思うことがあったこと。

すなわち、人の問題です。
どうも2対1と、3人の中で
グループに分かれている雰囲気なのです
(一人なので、グループとは言わないかも)

  • 診療中、一人が孤立している時がある。
  • 患者様とは笑顔で気さくに話すが、スタッフ間では 必要最低限しか話さない。
    しかも笑顔がなく、表情がこわばっている。
  • 3人とも帰りが同じ方向で、一緒に帰っていたのに、 最近バラバラで帰っている。
  • お昼休みも、一人だけ離れて食事をしている。
  • 一人が最近、仕事が楽しくないと、私に伏し目がちに 話すようになった。

普通この5つの兆候があれば、
まっとうな経営者なら、「何かあったのか」と、
一人一人時間を取って話を聞く
もしくは、問題点を見つけ、解決策を講じるもの。

しかし、あの当時の私は、全く無頓着。
というか、事の重要さに気付いていなかったのです。
そして、その日が、来ました。

平成3年10月2日
今も忘れようとしても、忘れられません。

診療終了後、3人が真剣な顔をして私に、話があるというのです。
その場に及んでも、私は
「もう少し給料が欲しい」とか、「休みを下さい」とか
労働面の提案だとばかり、思っていました。

そんな私に、彼女たちの一言は。
「私たち、やめたいんです」
「エッ!その嘘ホント!」

私は、日本語にならない言葉を発し、絶句。
そのまま、固まってしまいました。

我に返った私は、3人をなだめすかしたり、
私の悪い所を謝ったり、
今後、こんな医院を作りたい
未来の希望を話したり、
しかし、繋がりのない訳の分からない事を
言っていたと思います。

今では、もう後の祭り
彼女たちの気持ちは、すでに決まっていました

開業医の私神が与えた、有難い試練

スタッフが退職した直接の原因は、メンバー間の不仲でしたが、
本当の理由は、経営者(院長)のリーダーシップのなさです。

私たちは、閉ざされた空間の中で、四六時中一緒に時を過ごします。
楽しい時もあれば、つらい時、体調が悪い時もあります。
気分が晴れやかな時もあれば、機嫌が悪い時、
ムシャクシャする時もあるでしょう。

たとえどんな時でも、お互いを信頼し、認め合い
理解しあっていれば、些細な事で気まずくなったり、
仲たがいすることはありません。
しかし、少しずつですが、人間関係に亀裂が入ることがあります。

今回も、あの日が訪れる前に、何度かは個別に話し合いをしました。
しかし、問題はスタッフ間に限極したもの、
仕事に関しては、お互いプロの衛生士。

仕事とプライベートは別物と考えて、あまり深入りしませんでした。
その態度が、反発を招いたのでしょう。

今、振り返れば、やはり問題は職場で起こったもの。
その場合、職場の長である院長が解決しないで、
メンバーの尊敬や信頼を得られる訳がありません。

結果的に彼女たちは、私のリーダーシップ
統率力なさに、愛想を尽かしたのです。当然といえば、当然の報い。
予想された結果になったに過ぎないと我に返った時、気付きました。

その日、3人が帰った後、
残された私は、チェアーやパノラマなどの使用説明書を、一人寂しく眺めていました。
明日から一人で診療し、もちろん会計
電話対応など全てをこなす決意を固めていました。
心の中で、「これは夢であってくれ」と願いながら。

それから一週間、どのように診療をこなしたかは、定かではありません。
その間の記憶が、全く欠落しているのです。

というか、無意識のうちに心の奥底に、
封じ込めてしまったのでしょう。

そして今日まで、人材採用、育成に関して悩みは
尽きることはありません。

しかし、今日の事を教訓に、多くの改善をしてきました。
また、自分自身も成長しました。

今では、ヨリタ歯科クリニックと言えば、
強固なチームワークという言葉が、連想されるようになりました。

あの日から、強固なチームワーク作りは、私の永遠のテーマになりました。

「神は何故、私にこの試練を与えてくださったのか。」

今日まで、自問自答し続けています。

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