はじめに

院長の寄田幸司です。

私が思う「理想の自分」とは、例えばこんな感じです。

  • 常に前向きで、どんなに苦しい事、つらい事があっても、
    プラス思考で乗り切る私
  • いつも笑顔で自分の感情ををぐっと押さえる事が出来る私
  • 高い志と夢をいつも持ち続けている私。 そして夢を
    メンバー全員と共有する事が出来、強いリーダーシップを持った私
  • メンバーの厚い信頼と、尊敬の言葉

例えば「こんな医院で働きたかった」「こんな院長に出会えて良かった」
いつもいろんなシーンで聞いている私。 でも現実には全く出来ていない私がここにいます。

そして、賢明なあなたなら「理想の自分に近づくため、
今私がどんな事を考え、実行しているのかを、
自信満々に話す内容なのか

と想像しているのではないでしょうか。

人の自慢話ほど、聞きたくない、読みたくないものはありません。
私もそんな、誰も読まない内容を書く気は毛頭ありません。

では今回、何を話すのか。
高校、大学時代を振り返って、今の私とは少し違う、
もう一人の真の私に迫ってみたいと思います。

御興味のあるあなたは、最後までお読み下さい。

episode.01歯科医師の道へ

本当の理由

なぜ今あなたに
こんな真面目な話をするのでしょう

よく患者様から、「なぜ先生は歯科医師の道に進んだのですか」と、
聞かれる事があります。
その時は必ず「小さい頃から手先が器用だったからです」とか
国家資格のある職業に就き、自分をためしたかった」など、
エリート官僚のような、答えをしていました。

まるで私が選ばれし者であるかのように。
それはもちろん嘘ではありません。本当の事です。

しかし、真実は少し違っています
と、いうのも、
これを話すと、私がいかにいいかげんな人間であるかバレてしまうので
今まで、決して他言しませんでした。
今回は、その真相をお話します。

いつもメンバーの前では夢や情熱などを熱く(?)語っている私が、
実はこんな事があって、歯科医師になっていたとは。
その呆れる顔を見るのが怖くて、今まで誰にも話してません。

もちろん妻にも話しておりません
(妻も歯科医師なので、軽蔑されるに決まっています)
では何故この場に及んであなたにお話するのか。

  • 歯科医師の仕事に、やりがいを見出せなくなった
  • 以前本当にしたかった夢の実現のため、残りの人生をかける

そんな重大な理由などありません。 ただ一言で表現すると、
“魔がさした”そんな感じでしょうか。

高校時代の私です

歯科医師になる前の
私の夢

カッコ良く言うと、
自分に素直に生きる、
過去の清算をする…。

ウ~ン、この表現、あまり自分らしくありません。
要するにやっぱり魔がさしただけです。

話はもう少し過去にさかのぼります。
まず歯科医師になる前の私の夢を聞いて下さい。

実は設計士(建築家)になろうと思っていました。
たまたま、いとこが設計事務所を開いていて、
その仕事ぶりが、カッコ良かったからだけではありません。

そしてただ単にデザイン重視の自己満足の家を建てたかったから
でもありません。
私の考えていた理想の設計士像とは。
家族の愛情、夢、心のきずななど、
目に見えないものを形にする事が出来る職業。

そして日常の生活様式や、考え方、その人が持つ世界観なども
図面を通して表現出来る、設計士です。

家族の安らぎと、幸せに満ちた、世界に一つだけの空間
時間をかけてプロデュースする設計士、それが私の夢でした。

実は最近その夢もある意味、実現することが出来ました。
私が設計した作品が完成しました。
その作品とは、
そうです、今あなたがいるココ、ヨリタ歯科クリニックです。
改装後の医院には、私の思いがいたるところに込められています。

柔道をしていた頃の写真です(?)

新しい夢に出会うまで

1. 道場に連れていかれて

それでは何故私の夢が、設計士(建築家)から
歯科医師へ大きく変ったのか。

まず変わった時点(瞬間の方が正しいかも)ですが、
今でも明確に覚えています。
それは、私が高校3年生の冬

すなわち1979年1月14日
時間は夕方4:30ぐらい
場所は高校の教室(3年9組)です。
その時起こったある出来事が、それからの私の運命を変えました。

話を進める前に、チョットあなたに知っておいてもらいたいことが
あります。 私は高校、大学(岡山大学)と、
硬式テニスをしておりました

しかし、私はテニスがしたくて入部したのではありません。
それどころか、部活をしようとも思っていませんでした。

そんな私がなぜテニス部に入ったのか。
入学した3日後の昼休み、校庭を歩いていると、
体のデカイ3年生3人に、突然囲まれました。

小心者の私の肩に、手を掛け、
「君、エ~体してるから柔道部入るよな!
半年で黒帯にさしたるさかい」と。

そして、そのまま道場へと、連行されてしまいました。
その日の放課後から裸足での運動場のランニングと、
受身のけいこが始まりました。

「エッ私が、私が柔道、耳つぶれる!臭い!がにまたになるし~最悪」
というくらい気持ちで、2週間が経とうとしていました。

テニス部の友人たちと(右から2番目)
応援団に入って(右から2番目)

2. テニス部に入部して

そんなある日、道場からふと外を見ると
テニスコートがありました。

そして口から出任せに
「以前からどうしてもテニスがしたかったんです。
その気持ちは今でも断ち切る事は出来ません。
やはり初心に戻ってテニスをやりたいと思います」
と、話しました(今の現実から逃れたい一心で)。

と、いうことで、テニス部に入ることになりました。

テニスは上流階級や、女の子のスポーツ
(当時はまだそんなイメージがありました)だと、
たかをくくっていました。

しかし、実際やると、かなり奥が深く(私に才能がないだけ)
アッという間にはまってしまいました。
それが、テニスとの出会いです。

今となっては、テニスに出会えたことで、
多くの素晴らしい先輩・後輩と 知り合うことが出来ました。
運命のイタズラと言わざるをえません。

しかしその当時の私は、なんと、優柔不断、その場しのぎ、
行き当たりバッタリなことか。
今の毅然とした態度の私を知っているあなたには、
想像もつかないと思います。

もともと持っている、そのいいかげんな性格が、
私の将来を、大きく変える要因になりました。
その後、テニスに明け暮れた高校3年間を過ごすことになりました。

そして将来の夢は“家族の安らぎと幸せに満ちた空間をプロデュースする
スーパー設計士”です。あの時を迎えるまでは。

大学時代の私です

3. 運命の日を迎えて

運命の日を迎える前の二日間、私は大学入試一次試験に挑みました。
前年より、大学受験の制度が大きく変わっていました。

共通一次試験(今の共通テストとは全く違います)という、
国公立共通テスト(本番)の志望校が、その試験の結果により、
ほとんど決められてしまうのです。

私の共通一次試験の成績は、かなり悪いものでした。
自己採点によりこれが判明したのが、1月14日のお昼でした。
私の第一志望の国立大学工学部建築学科は、
まず不可能という結果でした。

私はそれからの記憶は、定かではありません。
気付いた時には、私の手の中にはなぜか
岡山大学歯学部の願書がありました。

あなたは「そんなアホな~」と、思うかも知れませんが、事実です。
繰り返します。その間の記憶が全く飛んでしまったのです。

実は私の運命を変えたこの出来事も、私の意志ではありませんでした。
と、言いますか、あの時の私には、
自分で判断し、行動する勇気と気力が全くありませんでした。

それでは、ここでその願書を私に渡したという
同級生の手紙をお読み下さい。

私の運命を変えた友の手紙

ヨリタマニアの皆様、はじめまして、山田豊和といいます。
私は寄田君の中学校、高校時代の同級生で、
高校3年生の時は3年9組で同じクラスでした。

私はその後、大阪大学歯学部を優秀な成績で卒業し、
現在堺市にて歯科医院を開業しています。
自分で言うのも何ですが、結構ハヤッテいます。ハッハッハッ。

実はもう25年も前の話なので、詳しくは憶えていません。
まあ、私には大したことではありませんので。

あ~確かにあの時、寄田君に岡山大学歯学部の願書を渡したのは私です。
そうです、あの願書はもう私には必要ないと思ったので。

何故って?、イヤ~共通一次試験の結果が良かったので、
ワンランク上の大学を、受けることにしました。

放課後、教室を出ようとした私の前に、偶然ポッカリと大きな口を開け、
窓越しに一人たたずむ、親友の寄田君
がいました。

声をかける雰囲気ではなかったので、
たまたま持っていた願書をその口、いや、
間違いました、その手に渡しました。
もちろん、励ましの言葉も添えました。

だって親友ですから。え~なんだっけなぁ~
明日の来ない今日はない、今を精一杯生きることが大切だぞ』
こんな感じでしょうか。
今思えば素直な寄田君は、
私のあの言葉をワラをもすがる思いで信じていたのでしょう。

根がマジメですから。
え~最後に歯でお悩みの方は親切丁寧、そして親友思いの
堺の山田歯科へ 是非お越し下さい。

歯科医師の卵の私です

新しい夢の
実現に向けて

思い切った方向転換。

それがどうも、あの空白の二時間の真相のようです。
ですから今でも、あのエリート歯科医師の山田君には
頭が上がりません。

我に返った私の手には、しっかり夢の片道切符(願書)
握りしめられていました。
そして私はその足で、職員室に向かいました。

そして吹っ切れた気持ちで、
「先生、岡山大学を受けようと思います。どうでしょうか?」
担任の貝谷(カイタニ)先生も
「そうか、一次試験の成績はあまり良くなかったみたいだな。
しかし岡山大学なら合格ラインだ、先生も応援するぞ

そう力強く言ってくれたのを、はっきり憶えています
(その言葉が私を後押ししてくれました)

そして納得の上で受験することになりました。
(ある一つの行き違いを除いて)

それは、小さな行き違いでしたが、
将来を考えれば、全く違う人生が待っていました。

それは歯学部と、工学部建築学科の違いです。
(先生はもちろん工学部を受けると信じていました)
私はこれは何かの縁、神様のおぼし召しかと思い、
乗りかけた舟、素直に歯学部を受験しました。

これは誠に私の優柔不断さ、イイかげんさ、行き当たりバッタリ、
良く言えば臨機応変、変化自在とでも言いましょうか。
あまり深く考えない得な性格(?)が成せるワザかもしれません。

大学の修学旅行で中国に行ってきました

私の夢が実現する日

歯科医師としてのスタート。

合格後、貝谷先生からお祝いの言葉がありました。
「成功する人はどんな分野でも成功する。
私は一年前から責任感があり、他人の痛みや苦しみが分かる、
君は歯科医師に向いていると思っていたよ!」
と。

それが、今診療室であなたに自信たっぷりにお話をさせて
頂いている私の25年前の1月14日の出来事です。

その後、6年間岡山大学で、相変わらずテニスをしながら、
大学時代をエンジョイしました。

学生時代、私の考えていた理想の歯科医師像とは。
ただ単に、むし歯や歯槽膿漏を治療する、
そんなお口の中だけを見る、歯科医師にはなりたくありませんでした。

お口を通して、その人を見る、その人の生活習慣を見る、
その人の家族を見る、その人の住む地域を見る、
広い視野に立つ、歯科医師になろうと決意していました。

そんな志を抱き、1987年、大阪に帰って来ました
私の歯科医師としてのスタートは、天王寺の小室歯科医院
4月1日、私の夢が実現した日です。

episode.02開業までの軌跡

歯科医師免許取得

免許はもらったものの…苦悩の連続。

昭和62年5月17日、歯科医師国家試験の発表があり、めでたく合格。
晴れて歯科医師になることができました。

しかし、それはただ「私にお会いした全ての患者様を幸せにするぞ」との情熱があるだけ。
歯科医師としては、かけ出し。

大学での臨床実習では、看護士さんの中で
人気投票ナンバー1(?)の私でさえ、実際の経験不足は
いかんともしがたいものが、ありました。

気持ちだけが空回りし、いつも冷汗の連続でした。
そして、私が勤務した大型診療所は競争社会、強いもの、
できるドクターが生き残る、焼肉定食…
イヤ、弱肉強食の世界。

(1年目の新米ドクターは、昼休み、他のドクターのために
よく焼肉定食を買いに走っていたのをふいに思い出しました)

そんな新米医師の私を励まし、勇気つけてくれた人、
私はこの人のおかげで自分に自信の持てる医師になった
といっても過言ではありません。

この大型歯科医院では、患者様1人につき1人のドクターが担当します。
複数のドクターが、患者様を診療するという事はありません。
それは担当医になることで、その人をより深く知ることができるため
です。

(お気に入りのオブジェ)

私を認めてくれた人

言葉一つ一つが、
私の自信に繋がりました。

しかし新米ドクターは医院での信頼感がないため、
小さな虫歯や、かぶせのやり替えなど、
本当に簡単な治療を担当する事がほとんどです。

歯周病などのお口全体の治療が必要な患者様を、
診察させて頂く機会は、あまりありません。
紹介(指名)以外は。

その人は、わざわざ私を指名して下さいました。
高い志と夢しかない私は、まずハブラシ指導と
お口のクリーニングからはじめました。

家では、歯ブラシと歯間ブラシの3本を
使い分けてくれるほど、熱心でした。
そのため、みるみる歯ぐきの状態は良くなりました。

同時に私は、その人の期待にこたえるべく、
多くの本を読み、講習会に参加し、時々は上の先生の
指示をあおぎ、ほぼ1年がかりでお口全体の治療をさせて
頂きました。

私は多くの事を卒後1年で、その人から学ばさせて頂きました。
この間、歯科医師としてのやりがいを感じ、
充実した日々を過ごす事が出来ました。

そして彼女も本当に喜んでくれ、心から感謝していただきました。
その言葉一つ一つが、私の自信になりました。
私を歯科医師として認めてくれた人は、私の母です。

勤務医の
4年間を振り返って

基礎となる素晴らしい出会い。

私は献身的な母のお陰で、卒業早期に様々な技術を
身につけ
実践する事が、出来ました。
1日に私が診療させていただく患者様は、10人程度。

そのため、一人一人丁寧な治療ができ、
また、ゆっくりとお話をさせて頂く事も可能でした。
この4年間で得たものは、何事にも変えがたいものでした。

時々私の師の小室甲(はじむ)先生と、お会いする機会があります。
今でも、常に新しい技術や考え方
導入していく向上心には、頭が下がります。

わたしが日頃心がけている「目標は高く、姿勢は低く」を、
飾らずさらりと実行している姿は、本当に尊敬しています。
少しでも近づきたいと思います。

ここであなたの知らないヒミツ(その1)を告白します。

実は私は小室先生ほどではないですが、かなり白髪が目立ちます。
そのため茶髪が一般的になるもっと前から、髪を染めています
そして、私が小室先生の域まで達したその時は、髪を染めるのをやめ、
先生と同じ白髪にしようと思います。
(その日が本当に来るのか、見当もつきませんが)

4年の勤務医の間、小室先生や先輩の先生方との素晴らしい出会い
今日の私の基礎をなしています。

長男、昴秀です
私にとっては宝物です

開業前夜

言葉一つ一つが、私の自信に。

4年間勤務医を経過しました。平成3年4月27日は最後の勤務。
そして私の送別会です。
この日も、生涯忘れられない日になりました。

あなたはもう、お気づきかもしれませんが、
私の人生は、その転機となる日、
必ず、何かが起こるのです

この4年間、自分なりには頑張って来ましたが、
なにせ大型診療所、ドクターの数が半端ではありません。
今まで肩書きのない、ただの勤務医の私が主役になることは
ありませんでした。

しかし、最初で最後、私がヒーローになる日が
ついにやってきました。
みんなが私の約束された成功(?)を心から祝ってくれる日。
その送別会の始まった直後、ハプニングが起こりました。

体調不良のため、7月出産予定の
妻が入院している病院から、
緊急出産の電話が…。

エッ!予定日は7月なのに!」
パニックの私は、そのまま送別会をぬけて病院へかけつけました。
そしてその日、思いもかけず、
長男誕生の日になりました。

送別会ではヒーローになれませんでしたが、
私にはかけがえのない日になりました。

仕事も育児もガンバルゾ!
心に誓った、平成3年4月27日でした。

episode.03新たな
ステージへ

私たちの家族、ミニチュアダックスのチャコです

周囲の助けをかり
無事開業

ロケットスタートと共に
順調なスタート。

多くを学んだ勤務医を経験した私は
自信満々(ある人はそれを自信過剰、身の程知らずと呼ぶが)で、
ここ、花園で開業する事になりました。平成3年6月8日のことです

妻の実家ということもあり(そのため、今でも妻には頭が上がりません)
ロケットスタート(ある人は逆噴射と呼ぶが)をきる事が出来ました。

現在私が、さらなる夢を抱き、楽しく診療させて頂いてるのも、
義父母、姉妹達の温かい応援、そして妻の協力のお陰です。

ここであなたの知らないヒミツ(その2)をお話します。
私はあなたの前では、頼りがいのある、信頼のおける歯科医師として
ふるまっています。

しかし一歩、いや半歩家に入ると(ドアを開けたその瞬間)
私は、愛犬のミニチュアダックスフントのチャコ(りんご3個分の大きさ)と同じ、言い過ぎました、りんご1個分の大きさになってしまいます。
まるで、不思議の国のアリスのように。

私たちの家族、ミニチュアダックスのチャコです

そんな小心者で恐妻家の私ですが、周囲の助けをかりて、
何とか、順調なスタートをきることが出来ました。

日頃来院されている皆様には、感謝の気持ちでいっぱいです。
しかし、私の人生です。そんなにうまくいくはずありません。
そして、運命の日を迎える事になりました。

最初で最大のピンチ

こんなにも早く予期せぬ苦難が
待ち受けているとは

開業以来今日まで、順調だと
あなたは思っていることでしょう。
しかし事実は違います。

平成3年10月12日、独立して半年、
最初で、最大のピンチが訪れました。

あの日の出来事は、忘れようとしても
忘れることは出来ません。しかし今日私があるのも、
彼女達3人から、多くのことを学んだ結果です。
本当に感謝しております。

独立開業するまで、私は、歯科医師としての
技術の習得ばかりに、目がいきました。
そのため、もっと大切なマネージメント(特に人材育成と
チームワーク作り)
は本当に素人でした。

その事が原因で3人の衛生士(3人とも意識の高い
素晴らしい人でした)
が、
うまく合わなくなり結果的に3人とも、いなくなりました。

全員がその日限りで、退職したのです。
それも突然、「今日で退職します」と…。

私はなだめすかし、せめて1ヶ月でもとお願いしました。
次の日は既に、40人の予約患者様がいました。

そのハプニング後、
数日間、どのように乗り越えたか記憶があいまいです。
幸いそのうちの一人が、帰ってきてくれました。

人生何事も学びです。本当にいい経験をさせて頂きました。

先輩医師の私の妻、三佳です

妻の開業

越えられない差が励みに。

平成13年4月1日、もう一つのよりた歯科クリニックが、
奈良市朱雀(すざく)にオープンしました。
院長はもちろん私の妻、寄田三佳です。

その時まで、彼女は結婚、出産、育児など、
ほとんど10年近く、本業から離れていました。
本当にやっていけるのか、私は少し不安でした。
ここであなたにもう一つの(3つ目)のヒミツをお教えします。

実は私の妻は私より一つ年上、歯科医師のキャリアも上。
この差(1年)が大きいのです

何年か、ブランクがあったとしても、
歯科医師としては私の先輩、師匠なのです。
私が多くの患者様を診療したとしても、
追い付けない差なのです。

このため、彼女としては、
「後輩のあなたができるのだから、私はできて当たり前、
本当は私のほうが手は器用なんだから」と言い切ります。
私は、反論できません。

ある事実があります。
私はスタッフ全員が認めるように、字がヘタで読めません。
また絵も、小学生の息子より下手です。
彼女は、字もきれいで美術も得意です

ちょっとした差が、決して乗り越えられない
大きな、心理的な格差になっています。
妻の開業は、私にとっても大きな励みになります。

ウェルカムサロン
誕生秘話

私の愛するあなた(母)への手紙

ウエルカムサロンへお越しのあなたに、
是非知って頂きたい事があります。
ウエルカムサロン誕生秘話です。

私の愛するあなた(母)への手紙

平成12年2月5日、あなたは突然私の前からいなくなりました。
それまでの数日間、あなたはあまり体の調子が良くありません
でしたね。
たまにしか会わない私の前では、
いつも笑顔を絶やさなかったあなた
私に心配かけないよう、気丈に振舞っていてくれたのですね。

あの日は冬の寒い土曜日でした。
いつものように忙しく診療している私に、
悲しい一報が飛び込んで来ました。

私はそんな中、午前中診療を続けました。
いつも土曜日の午前というと、
初診や急患など予約以外の患者様が多いのですが、
その日は不思議と全く来られませんでした。

まるであなたが
今日のこの心境では、十分な治療が出来ないでしょう。
それでは来院される患者様に申し訳ありませんよ

と言っているようでした。

私は心の中であなたに
こんな大切な時に、そばに居なくて本当に申し訳ありません。
あなたの無償の愛に答えられなくて、本当にごめんなさい

と何度もささやきました。

その日ほど「これは現実ではなく、夢であってほしい
と願った日はありませんでした。

若き日の父・母
母と私

たとえ現実であったとしても、
せめて1日だけ過去に戻してほしい、
最後のお別れを、声が枯れるまであなたに聞いて頂くために

たとえ現実であったとしても、
せめてもう1日だけ未来に延ばしてほしい。
あなたの暖かい手を、しっかり握りしめることができるように

あの時、あなたから教わった事。
時間(人生)には限りがある、
1分1秒たりとも無駄にしてはいけない
そして私が学んだ事。
自分に素直に生きる。
やりたい事を心から楽しんでやる、
決して迷わない、決して諦めない

あの日から早4年半が過ぎました。
その間、あなたから教わったこと、
学んだ事を自分なりに理解し、実行してきました。
具体的には、医院をリニューアルし、
私と患者様、そしてチームメンバー全てが
満足し、幸せになる医院作りをしてきました。

私が目指した理想の歯科医院は、
感謝の言葉があふれる歯科医院
感動を与え続ける歯科医院、
そしてワクワク楽しい歯科医院 です。
そのために2階にウエルカムサロン(予防サロン)を
オープンしました

そして、ウエルカムサロンに是非来て頂きたい人
それは、子育てから離れ、
これから第2の豊かな人生を歩もうとする女性
です。

私の愛するあなたにこそ、
このフロアを使ってほしかったのです。
あなたに健康で豊かな人生を、
過ごして頂きたかったのです。

ウェルカムサロンにある、お気に入りのオブジェ
  • 新米だった頃に私が心を込めて作ったさし歯を、
    1日でも長くもたせてあげたい
  • 虫歯もない健康で美しい歯は、一生そのままで使って頂きたい
  • 治療の時いつも緊張の連続のあなたに、
    少しでも安らぐ空間でリラックスして
    アフターケア(お口のクリーニング)を受けて頂きたい
  • 時間や周囲の雑音を気にせず、心から会話を楽しんでほしい
  • 私のお気に入りの小物やオブジェなど、心ゆくまで見て頂きたい

全てあなたのために用意したものです。

あと3年早ければあなたも使って頂けたのですが。
そして、その心地よさを体験し、
あなたの満足した笑顔を見たかったのです。
今はそれも叶わぬ夢となりました。

しかしあなたの
患者さんの心の痛みが分かる優しい歯科医師になりや
と言う言葉を胸にこれからも
あなたの分まで強く生きていきます

新たな旅立ちの時

次のステージへ向け歩みはじめました。

ヨリタ歯科クリニックは、
平成14年11月3日リニューアルオープンしました。
ただ単に古くなった内装を変えただけではありません。
診療室の面積を2倍にした、大規模なものになりました。

しばらく来れなかった患者様の中には、
外観は変わっていなかったため、
内に入ってビックリされた人も多くいました。

このリニューアルは、私の新たな挑戦でもありました。
歯科医院は歯を削ったり詰めたりするところではなく、
あなたの大切な歯を虫歯や歯槽膿漏から守る所だと、
あなたに是非知ってもらいたかったのです。

そのため、あえて1階、2階を分けて、
2階をウエルカムサロンと名づけました。
これは、私の強い意志の現れです。“こだわり”の部分です。

そして私の夢に終わりはありません。
理想の自分を求め”これからも、様々な事にチャレンジしてまいります。
あなたの満足と、信頼を得るために、新たな夢に向かい、私は旅立ちます
最後に私の好きな言葉を、あなたに心を込めて届けます。

「夢は願えば叶う!そしてその夢に日付けを入れよう!」

ドリームマスター 寄田 幸司

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