院長ブログ

[’10/5/31] 武藤物語

いつも、お世話になっております。
ブロックスさん取材のため、私たちの医院にお越しになりました。

取材の目的は、以前私たちの医院で勤務していた武藤先生について。
何でも、武藤先生の成長物語(?)を題材とした映像を、製作するのだという。

それなら、寡黙で、口下手(ちょっと言いすぎ)な武藤先生より、
彼の新米ドクターの頃を、よく知っているのほうが、
いいコメントが取れるのでは(売り込みすぎ)、ということなので、
私も、インタビューを受けることになりました。

このコラムでは、
過去、勤務医であった武藤先生(たった1年半でしたが)について、語ってみたいと思います。

実は、武藤先生は、私たちの医院で初めての新卒採用ドクターです。
それまでは、私たちの医院の噂を聞いて集まった(自慢しすぎ)、中途採用ドクターのみでした。

私たちの医院では伝説となりました、ウルルン真ちゃんこと、
吉田真一郎先生は3年間の勤務中、
その才能が大きく開花し、その勢い開業後も衰えることはありません。

その吉田先生が、ヨリタ歯科を卒業する運命の日
2005年4月1日(この日は私の誕生日でもあります 自分をアピールし過ぎ)に入職したのが、
今回の、武藤物語の主人公、武藤拓也先生

新卒といっても、大学で経済を学び、一部上場企業に就職したエリート
しかし、会社での上下関係に悩み、また、将来の不安を感じ、
3年間の勤務後、一大決心をして退職。
父の職業である、歯科医師を目指すことに。

文章で書くのは簡単なことですが、並々ならぬ決意があったハズ。
こうしたい、こんなことが出来ればと思う人はたくさんいる。
しかし、退路をたち、まだ見ぬ未来を信じ行動をできる人はそんなにいない。

それだけでも、やはり武藤先生ただ者ではないと実感します。
サラッと書きますが(この間はあまり知らないので)、その後、私と同じ母校である
岡山大学を卒業、ヨリタ歯科クリニック入職

私と彼が、初めて出会います。
働き初めての彼の第一印象、それは“寡黙”。
スマイル アンド コミュニケーションを、最も大切にしている私たちにとって、
少し異色の、大型新人(彼の身長は180㎝を越えています)だったのです。

ただ今思えば、その時は新卒ドクター。
目の前のことに一生懸命一心不乱一球入魂
その姿が、そのように映ったのでしょう。

そして一年、彼に大きな転機が訪れます。
現在、武藤先生が院長であるゆめはんな歯科クリニック登美ヶ丘
オープンしないかというオファーが、私たちにあったのです。

突然の話であったため、多くの勤務医の先生はためらい、決断することができませんでした。
只一人、武藤先生を除いて。
その時の彼には、チャンスがあれば、少しでも早く独立したいという熱い思いがあったのです。
そして、その思いをメンバー全員の前熱く語ったのです。

この内容は、武藤先生のブログの中で紹介された“父へ”をここで紹介します。

父へ

今からちょうど、一年程前、2007年1月31日、私の尊敬する父、
孟がこの世を去りました。

当時はトーンが暗くなるのが嫌で、
また、自分の気持ちの整理もついていなかったので、
このことについてはホームページでは一切、触れませんでした。

父は大阪の四ツ橋で開業をしている、歯科医師でした。
無口で、あまり社交的とはいえず、昔気質の職人肌の歯科医師でした。
でも、手先が器用で、患者様からの信頼も厚かったようです。

私は小さい頃から、そんな父の姿を見て育ちました。
だから、高校を卒業すると、当然、歯科大へ。
現在に至る・・・という訳にはいきませんでした。

親の仕事をそのまま継ぐなんて、自分の意志がないじゃあないか。
親の敷いたレールに乗っかるなんて、ごめんだ。

ちっぽけな反抗心からか、そう思っていました。

高校生の頃、あまり真面目な生徒でなく、学校もサボりがち。
成績も下から数えたら、片手の内に私の名前が出てくる位、
悲惨なものだったことも関係していたかもしれません。

親も無理強いするようなことはありませんでした。

一年の浪人生活を経て、関西学院大学法学部法律学科に入学。
そのまま歯科医師になるのでは自分の意志がない、
なんて格好のいいことを言っていた私ですが、
特に法律家になりたい訳でもなく、
潰しが利きそうな学科だというだけの理由でした。

楽しいだけの大学生活。

仲間達とわいわい騒いで、アルバイトに明け暮れて。

勉強した記憶はほとんどありません。

そして一部上場の建築関係の企業に就職。

何となく受かったから入社した会社では、
ゼネコン相手に建材を売る、営業職に就いていました。

ゼネコンの怖そうなおじさんに、安くしろ、納期を縮めろ、と
無理難題を押し付けられ、やっとの思いでそれを実現すると、
当たり前のような顔をされる。
社内では、仕事を取ってこなかったら怒られる。
取ってきたら取ってきたで、何でそんなに安い仕事を取ってきた、と怒られる。

それでも最初のうちは、たくさん仕事を取ってこようと、一生懸命でした。

そんな生活が3年続いた頃
『こんな生活、一生続けるのだろうか?』
という疑問が頭に浮かびました。

上司を見ても、あまりやりがいを感じていそうにないし、疲れた顔をしている。

もっと、人に喜んでもらえる仕事がしたい。

もっと、人の笑顔に出会える仕事をしたい。

そんな想いが私の心を占めるようになりました。

もやもやした毎日。

ふと、父の姿が頭に過りました。

噛めるようになった、と涙を流して喜ぶ患者様。

歯の治療は父でないと、と言って、
引越し後も新幹線に乗って広島からわざわざ通院してくれる患者様。

少し怖そうなお兄さんも、父の前では頭を下げて感謝していました。

これだ!!

私は今まで、考えてみたこともなかった、
歯科医師、という職業を急激に意識するようになりました。

そうなると、もう止まりません。

4年近く続けてきた仕事を辞めて、
もう一度、大学受験をすることに不安がなかったと言えば嘘になります。
でも、それをかき消すような強い想いがありました。

一年の浪人生活を経て岡山大学に入学をすることができました。

でも、それはゴールではありません。
父のように人に喜んでもらえる歯科医師になるための、ただの通過点。
一度目の大学生活でほとんどしなかった勉強にも、力が入ります。
アルバイトも接客の勉強、という視点ですることができました。

父は自分の歯科医院を何とか私に残してくれようとしていました。
しかし、20年以上に渡って人工透析を続けながら仕事を続けてきた体は
私の在学中についに、悲鳴を上げました。
父はテナント契約の医院を閉院せざるを得ませんでした。

大学は問題なく卒業。国家試験にも無事、合格。
東大阪市花園にあるヨリタ歯科クリニックへの勤務を経て、
ゆめはんな歯科クリニックを開設。

オープン直後、父は杖を突いてこの、
ゆめはんな歯科クリニックを見に来てくれました。

それから、半年、父は帰らぬ人となりました。

父からすれば、まだまだひよっこの私ですが、
自分の開設した医院を最期に見てもらうことができ、
間に合ったという思いと、これからという時、もっともっとゆめはんなが、
皆さんに喜んでもらえる医院になった姿を見てもらいたかった、
という思いが交錯し、複雑な気持ちでした。

父の足許にも及ばぬ私。父とは全然、違うタイプの歯科医師である私。

でも、天国にいる父に胸を張って見せることのできる仕事をしよう、
いつも、そう思って診療に臨んでいます。

お父さん、いつまでも私を見守っていて下さい。
私はあなたの息子として恥じることのないような歯科医師になります。

ということで、彼は今、独立開業
多くの患者様信頼され、
多くのメンバーに、愛されています。
その紆余屈折が、物語になるのです。

武藤先生学んだこと
それは、

自分の道は、自分で切り開く
チャンスは、自分の力でつかみ取る
決してあきらめない、限界を決めない

その3点。

開業当初、彼はヨリタ歯科クリニックで学んだことを忠実に守り
まずは、基礎固めをしました。
そして、少し余裕が出来てくると、多くの勉強会に参加し、
自分らしさや、自分しかない強みを磨きました。

そう、オリジナリティすなわち、ゆめはんならしさを出しているのです。
殻を破ろうと、しています。
そしていつか、新しいステージへ飛び立ち離れるのでしょう。

能の世界で言えば、「守破離」
今はまだ夢の途中、通過点にすぎません。
武藤物語は、今後も続いていくのです。

人には全てその人独自の物語ストーリーがあります。
誰にも、大きな出会いや転機があります。
私たちとの関わりが、その人の物語の重要な位置付けになれば、
こんなに、幸せなことはありません。

人との関わりの中で、振り返ればそこには、
いつも、“ありがとう”の言葉があふれています。
そう、人は皆、感謝の国の住人なのです。

私が、カメラの前で武藤先生の話が出来ること、
それは、武藤先生が私たちの医院を選んで頂いたお陰
本当に、感謝の気持ちでいっぱいです。

追伸 今日も、収録は続きます。

?<武藤物語は終わらない 寄田幸司>

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