[’08/5/6] 「ありがとう」発見
日頃、留守がちな私にとって、ゴールデンウィークは、 久しぶりにゆっくり出来る、安息日。 ということで、自分の身の回りの整理整頓をしました。
例えば、いらない書類を捨て、 必要なものを、買ってきたファイルに収納しました。
読み終えた本は、書棚に収納、 読みかけ、または手を付けていない本は、一つにまとめました。 今後、出勤時に読むように。 結局ゆっくりしないで、動き回っていました。
ということで、身の回りが美しくなったことで、頭の中までスッキリしました。
ここで、自分の行動パターンが読めました。 やはり、やりたいこと、やり残していることをやり切らないと、 落ち着かない、何故か気が休まらない性格なのでしょう。
また、頭がスッキリした時、ふと新たに気になることが出来ます。 性格なので、お許し下さい。
ということで、以前知人に頂いた、 ダスキン創業者 鈴木清一氏(祈りの経営で有名)の 語録集(コピー集)が出てきました。
タイトルは『「ありがとう」をたくさん発見し、言葉にしよう』 その冒頭の言葉喜べる心 鈴木 清一
「針ほどの事を棒ほどによろこべば棒ほどのおかげがある」 というみ教えがあります。 どんな小さな事でも大きな喜びとすれば 大きな喜びになって自分が幸せになる。 「世界中で、一番幸福な人間とは感謝の出来る人間である」 と、ユダヤ人の友人から教えられた事があります。 「毎日、毎日ありがたいなぁ」と、 喜んでくらす生活こそ、本当のしあわせです。 感謝することは、幸福の山びこです。
庭に咲くタンポポの花をみて 「美しい花だ」と思う人、「雑草だ」と思う人、何も感じない人 その受け取り方は人それぞれですが、 「美しい花だ」と思えるときが、きっと幸せなときなのです。
幸せとは、自分の心で決めること 「ありがとう」と言葉にすれば、その時、幸せになれる。はた、と気付きました。
周囲の人、物、全てに感謝の気持ちを持つことの大切さを。 ただ一言、ありがとうと言うだけで、幸せになれることを。 幸せとは、他人との比較ではなく、自分自身で決めることを。
さらに読み進めると、こんな文章に出会いました。
あるキリスト教徒の祈り 作者不詳
大事をなくそうとして力を与えてほしいと願ったのに 慎み深く従順であるようにと弱さを授かった
より偉大なことが出来るように健康を求めたが よりよきことことができるようにと病弱を与えられた
幸せになろうとして富を求めたのに 賢明であるようにと貧しさを授かった
世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに 謙遜であるようにと弱さを授かった
人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに あらゆることを喜べるようにと生命を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが 願いは、すべて聞き入れられた
もっとも小さきものにもかかわらず 心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた
私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福されたのだ 人は、さまざまなものを願い求める
心にずしんと響きました。 いかに私が欲深く、俗物的であるのか、よく分かりました。 いかに私が短絡的で、薄っぺら人間か、よく分かりました。
この4日間の休日の過ごし方だけを見ても、 いかに自分がせっかちで、落ち着きがなくゆとりがないか、よく分かりました。
いやいや、今からでも遅くはない。 庭に出て、風を感じながら、新緑を楽しんできます。
? <休日の過ごし方を知らない 寄田 幸司>