Vol.2 幼少の頃の私 ~商売に対する基本姿勢~
私は昭和37年4月、大阪府和泉市で生まれました。
父も母も同市の出身ですので、今も多くの親戚が近くにいます。
小学校低学年までは、父はショッピングマーケットの一角で、
小さな服品店(服の販売)をしていました。
私の記憶では、父と母の他、店員さんが一人いたような気がします。
そして私たちは、店の2階に住んでいました。
ですから、ショッピングマーケットの中が、私の遊び場です。
私の幼馴染は、皆商売人
(例えば駄菓子屋、化粧品屋、豆腐屋、タコ焼屋)の息子や娘でした。
だから友達同士の朝のあいさつは、「おはよう」「よぉ!」ではなく
大阪弁で「まいど、まいど」「もうかってまっか~」
別れのあいさつも「さよなら」「じゃあね~」ではなく、
「また来てや~」「ごひいきに~」でした(ウソではありません)。
しかしいつの間にか、私の父はただ単に服の販売をするのに飽きたのか、
ニットの製造卸業を始めていました。
さらに、自分でも服のデザインをするようになりました。そして、新たに工場を建て、
何台ものミシンと多くの女性が働くような環境になりました。
また自宅も工場と同じ敷地内にありましたので、小さい頃から商売のイロハを肌で感じ、
学んでいたように思います。
例えば、ヨリタ歯科クリニックのメインターゲットの一つは、
豊かな人生を歩む、40才以上の女性です。
あの頃の、父の職場は、もちろん圧倒的に女性が多く勤めていました。
昭和40年代の日本は、まさに高度成長時代。
明日はもっと生活が良くなる。そのために今を一生懸命に生きようとする、
夢と希望で胸を膨らませた、明るく活発な女性に、私は囲まれていました。
職場はいつも、笑い声や、楽しい会話が弾んでいました。
多くの業者が、毎日商品の積み下ろしをしていました。
そんな職場の中で、私も夏休みなどは仕事を手伝い、小遣いをもらっていました。
時には、父の車の横に乗り、商品の配達をしました。
また工場内では、型紙に合わせ、ニットの裁断もしていました。
何か人の役に立つことをして、その対価として報酬も頂く、もしくは正当な評価を得る。
お金のありがたみを感じていました。労働の高尚さを知りました。
あの頃の原体験が、今の私の商売に対する基本姿勢を形作っています。
次回は、中学生活での学びについて、書こうと思っています。